得るものと失うもの サイトマップ
 托鉢(たくはつ)に出かけて雨に降られ、近くのお堂で雨宿りをしている中、ふと自分の姿に気づきます。頭陀袋(ずだぶくろ)とお鉢(はち)一つのその身なりに、思わず笑みがこぼれます。
 その瞬間の情景を詩に詠み、生涯の遊行生活を、「破家(はか)の風」と表され、得たものの大きさに応じて、失うものの大きさも感じておられたのは、良寛和尚さまその人です。
 また、修業の末に高僧と讃えられ、多くの弟子を育てていた途中で、故郷の母親の闘病を知り、全てを捨てて帰郷し、草鞋(わらじ)を編んでは売り歩いて介護を続けた、陳(ちん)蒲鞋(ほあい)和尚さまもまた、その時の境遇に則した選択を決断なされた方のお一人と言えます。
 何が無上でそれ以外は何なのかは、分かっているようで説明がつきません。同じ状態でも同じ事を思っているとは限りません。皆が漠然とした上昇志向を美徳とする現代では、平常心を保つことが大変難しく、暢気な生き方が出来にくくなっているようです。
 疲れ果てていては、いざという時の判断が定まりません。襲って来る情報の嵐を唯々やり過ごすのに皆精一杯です。
 では、お釈迦さまは、何を求めて歩まれていたのでしょうか。お生まれも高貴で、文武にも優れ、家族にも恵まれていました。一方、部族の衰退は眼に見え、隣国との争いに敗れるのも時間の問題だったようです。
 充分な幸せが奪われようとするとき、皆さんはどうなさいますか。戦いますか、あきらめて逃げ道を探しますか。なかなか当人でも判断が着きにくい場面でしょう。
 さて、その時お釈迦さまは、出家して一度家族と離れ、仏陀と成って故郷の城門の前に座り込んで、敵国の軍隊を足止めし、部族を救うべく命をかけました。ですが、隙を突かれて結果的には救うことが出来ませんでしたが、生涯をかけて多くの人々の精神を救う結果となり、現在に到るまでその威徳は色あせることが有りません。
 古来、空気感や雰囲気から学び取っていた感覚が言葉と成って表現され、文章として定着されたかのように見えていても、実は何一つ伝わっていないのかも知れません。物事への理解がすすむ程に、また、理解できない部分がいかに多いかも認知し、及ばない事への畏敬の念が人を向上させているのではないでしょうか。
 人々が生きていく限り、この世界が存在する限り、仏と成る可能性が有る限り、有り難いことに、弘法大師さまも私たちを見捨てずに寄り添っていて下さいます。仏さまの智慧は、とてもとても広大で崇高なものですが、人々が諦めずに縋(すが)り付いていく限り、きっと何時かはそれなりに実りを付け、多少なりとも良き先達として、道を示すことが出来るよう、各々の範疇でお互い努力を続けて参りましょう。
平成23(2011)年9月:修詮記

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